昭和49年04月14日 特別奉修委員



 先程桜井先生とここでお話したことでしたけれども、もう私は毎日毎日のことながら、神様の御働きの素晴らしいことを、もう本当に「氏子信心しておかげを受けてくれよ」とあのう仰るそのうお心がよう判る思いがする。例えばここで朝晩頂く御理解を思うてみても、本当にそうばって神ながらな事でありますばいと言うて話した事でした。今朝の「神は屑の子ほど可愛い」というあのう御理解を、教典の中から今日頂いたんですけれど、昨日私が、ならそれとまあぁ同んなじ様な意味での。
 親鸞上人の雑誌のそこを読んでおったということ。それからここへ座らせて頂いて、これはもう以前には書いとったんですけれども、とにかくここの一番上にこう上がっとったんで、そのうここん所を「かもけしに仁丹を召す隠化かな」なんて言う。これがねその三つが今日のお話の芯になった訳なんですけど、とても頭で考えてからでも出来ることではない。そういう働きがね、本当にあのういかに神様があのう御理解という、咬んで含めるように判らして、おかげを下さろうとしておるかということが判りますね。
 と言うて話した事でした。今御祈念に掛かる前久留米の井上さんが、先日からあのうありゃ誰ですか、カナダの何とかという超能力のね、あれを見ながらテレビで、ご主人子供たちも自分も一緒にご覧になって、見終わってからご主人が言われる事に「合楽の親先生ちゅう方が、こういうふうな能力を持っちゃるとじゃろうね」てこう言われたんです。信心のない主人がそれをいう事をね、大変有り難いと思うとったら、横から由美子さんがいう事が、もうぞうたんのごともう親先生の念力はこんなもんじゃなかち。
 まぁといったとこう。そん時私も「ほんなこつ、こう私の場合はあのう遊び半分の事やら、手品みたいな事じゃなくてね。もう本当に必要なものは、必要に私の念力で引き寄せれるだけのもの、なら病気なら病気を本当に癒えるもの」というね。私の念力はほんなこつそうどこじゃなかって。私は井上さんの話を聞いて思ったんです。そしたら「貸し物借り物」と頂いた。私のはね天地の親神様が私に貸してあるとです。
 だから神様から何時取り上げられるか分からん。これはもう二十何年前でしたけども、まだ修行中福岡の教会にお参りさせて頂いて、その時分はまぁあのう「教祖様」と申し上げりゃ、教祖様が出て下さる。「四神様」と言やあ二代様が出て下さり、「三代様」と言やぁもう三代様は御生存じゃったけども、お声もそのままにね、三代様がここでね返事をして下さりよった。「桂」と言やぁ桂が出、「石橋」と言やぁ石橋が出、「吉木」と言やぁ吉木が出と言うて。
 もう本当にあのう私はそれを頂いてから、本当に私のような幸せなもんなない信心も出来んのに。神様たちがね、こうやってもうおかげを下さって、結構なものを頂いて有り難いといったら、神様からねあのう「お前はそれを頂いとると思うとるか」と。頂いておるからこそこのようにして頂ける訳なんだからと思うたら、「お前のは頂いとるとじゃない、貸しものだ」と神様仰いました。だからまたそれを頂いて、ほんにまたそうでもあろう。信心も出来んのに頂けるはずはないもんなとこう思うた。
 そしたら「一生借り続ければその方のもんじゃ」と仰った。ですから金光様の御信心のお徳というのはね、そういうその念力的な事もさる事ながら、確かに、「貸し物借り物」です。そこから例えばいうなら私共のこの命とてもやっぱり同じこと神様の借りもの。皆んながあのう家蔵も持っておる。財産も持っておるというても、それは一切が神様から借りとるだけの事なんだ。
 だから借りものの自覚というのが、私は金光教の信心に、いわゆる教祖様の信心の実意丁寧神信心というのは、実意丁寧にならなければおられない借りものだ。私のもんじゃない。いうなら先生ね。そういうところを私共の生活の上に、本当に神様の借り物である。ならこの命をこの体を借りておるのですから、自分勝手にいわば体を損ねる様な事に、無駄無理使いというか、または不摂生な事をしてはいけない事が判ります。
 お金でもやっぱり借り物ですから、借りとっとば自分で本当に勝手に私のもんだからといったような考え方で使う事は間違いということが判る。どうでもひとつ「貸し物借り物」なんですから、それを仏教では「この世は仮の世」とこう。それはあのう仮普請のかりですね、仏教で言うのは。けども私は「仮の世」ということは、そういう借りておるというふうに頂く方が本当じゃないかと、今日は思うんですね。